祖父母の話

今年も正午の黙祷をテレビ越しで共に祈りました。


 母方、父方の祖父母から太平洋戦争当時の話を聞いたことはありません。

聞く機会がなかった。というか聞かなかった。というより、聞いてはいけない禁忌事項のような気がして、小学校で太平洋戦争の授業を受けた後、食卓で授業の話をしても誰もそれに触れようとしなかったという記憶があります。



父方の祖父母宅で一度だけ戦争に関わる話を聞いたことがあります。家の勝手戸の壁にかけられていた水筒がきっかけでした。祖母に「あの水筒は何?」と尋ねると「おじいさんが戦争で使ってた水筒よ」と教えてくれました。

大人になってからその時の記憶を頼りに調べてみますとそれは旧日本軍で使用されていた旧五式水筒というものでした。祖父はどこか南の国へ行ったとか行っていないとか。




子供のころ住んでいた街には徒歩圏内に山肌に掘られた防空壕が数個残っていました。

母方の祖父母宅は車で近い場所にあったのでよく家族で祖父母宅に訪れていました。皆で出かけるため車で移動している時にそれらを見かけるたび「あれは何?」と隣に座っていた祖母に尋ねますと祖母は「あれは防空壕よ」と教えてくれました。

「防空壕てなに?」「メリケン(当時のアメリカの呼び方、祖母世代はこう表現する人が多かった)から逃げるための穴よ」

祖母はそれ以上は何も語りたがりませんでした。


当時の状況を総務省HP国内各都市の戦災の状況と見ながら、伯母が生まれた年も踏まえ、照らし合わせてみますと祖母と祖父は戦時中、空襲を受けた街に住んでいたことになります。

造船所、製錬所、火薬を作る工場があったその街は例外なく米軍の焼夷弾や機銃掃射を受けた街でもありました。

しかし、軍需産業の町であったとはいえ、なぜか本格的な爆撃しなかったのか。は未だ謎でます。一説によるとアメリカ人捕虜が多数いたため、制海権、制空権ともに連合軍にあり、勝利は確実。戦後、利用するためだった。との説もありますが、今となっては誰もしるよしはありません。



祖父母が住んでいた地区から車で4、5分の場所に造船所があり、そこは深夜空襲を受け20数名の死傷者が出ました。しかしこの痛ましいその事は、憲兵隊に被害を隠すよう指示され市民の中でも知らないものが多い。という状況であったそうです。


当時、祖父母は造船所のすぐ側で働いていたので、おそらくそのことは知っていたのだと思います。もしかしたら仕事柄、その後片付けに参加していたのかもしれません。


2人は今はもう既になくなり当時のことを直接知る事はできませんが、なぜ諸外国の友人(特に朝鮮と中国の方々。当時の造船所にはそこに人工として連れてこられていた。その中で日本に残った人たちに仕事ができるよう色々段取りを組んでいたらしい)が多かったのか、アメリカ海軍と結婚しアメリカへ行った親戚がいたのか等々。戦後80年が経った今、これまでバラバラだった疑問の点と点に少しずつ線がつながってきたような気がします。




最後に、戦後80年、90年、100年…恒久平和であることを願います。
















コメント

人気の投稿